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〜選択した記事〜

ロワイヤル橋 2011年11月 2日


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遠目には一見シンプルで一つ前のカルーゼル橋と似かよった外観だが、ロワイヤル橋の路面は石畳で、レトロな街灯が雰囲気を醸し出している。長さ110m、幅16m 、5径の半円アーチをもつ石橋の建設年は1685年。セーヌ川にかかる橋37のうち、ポン・ヌフ(1578-1607)、マリー橋(1614−1630)に次ぐ古い橋なのだ。橋の上から下流を見渡すと、左にオルセー美術館が優雅な姿を見せ、対岸にチュルリー公園が広がっている。

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この場所には1550年から渡し舟が通っていた。現在は緑豊かな公園となっているチュイルリーには当時宮殿があり、対岸のバック通り(その名も「渡し船」通り)をつないでいた。1632年、徴税官バルビエがそこに木の橋を架け、通過税を課すようになる。この橋は、時の王妃アンヌ・ドートリッシュ(ハプスブルグ家出身、王ルイ13世の妃でルイ14世の母)にちなんでサンタンヌ(聖アンヌ)橋、あるいは橋が赤かったのでポン・ルージュ(「赤い橋」)と呼ばれていた。

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15ものアーチを持つこの木製の橋はあまり頑丈ではなく、修復されては架け直され、焼け落ちたり大水に流されたりして1660年に新たに建設され、1673年に補強されたものの、数年後に再び大増水で半分以上流されてしまう。当時の女流作家セヴィニエ夫人が1684年2月28、29日のこの洪水について描写しているように、中世の橋は自然災害には脆く、川の氾濫に耐えうる技術を持たなかった。

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結局、翌年、太陽王ルイ14世の出資で石造アーチ橋建築が着工され、1689年に完成するのが、ロワイヤル橋(王家の橋)である。18世紀、人々はなにかにつけてここに集まりお祭り騒ぎをする習わしになったという。橋を見下ろす左岸に、哲学者ヴォルテールがジュネーヴから移り住み晩年を過ごしていたが、そんなお祭りが暴動になってゆく様を眺めることもあったのだろうか。革命前夜の1778年に亡くなり、パリの公証人の子である彼が20代に2度も投獄されたバスチーユがその11年後に襲撃される。一度はジュネーヴに埋葬されたヴォルテールだが、革命中の1791年にパリのパンテオンに移されている。

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フランス革命のあと、1792年〜1804年はナシオナル橋と呼ばれた。革命政府がチュイルリー宮の広間で開催している国民公会を守るため、ナポレオンはこの橋の上に大砲を設置したという(ナポレオンはまだ20代前半、パリに出て間もない頃である)。国民公会を率いていたのがロベスピエールだが、革命の嵐の中、指導者の彼も1794年に断頭台に消えてしまう。「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」ナポレオンは、その後一気に出世街道を駆け抜けるが、彼の栄華が果てる1814年まで、橋はチュイルリー橋と呼ばれていた。

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ロワイヤル橋は1850年に軽く化粧直しされ、その後1939年、ポン・ヌフ、マリー橋と共に歴史建造物に指定された。両岸の橋脚にかつてのセーヌ川の水位が記されている。大増水の折には半分以上水に浸かったやもしれない、今では老木となった古い大木が河畔の散歩道に張り出し、そんな橋の歴史を静かに見守っている。

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橋を右岸に渡った正面は、ルーヴル美術館の一部フローラ・パビリオン、エコール・ド・ルーヴルという美術学校だ。少し右に下がると、両側にライオンの立つリオン口(Porte de Lion)がある。一般にあまり知られていない美術館入り口だ。ピラミッド口はいつもかなり長蛇の列ができていて長く待たされるが、ここからだとほとんど並ばずに入ることができるが、閉まっていることが多いので要注意。右手の降り口から入ったところはドゥノン翼になる。2階のスペイン絵画を抜け、イタリア絵画の18世紀、17世紀・・・と長い長い廊下を通って「モナリザの微笑み」まで、400mぐらいは歩く。

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一昔前、世界的ベストセラーとなったミステリー小説「ダヴィンチ・コード」の前半にロワイヤル橋が出てくる。象徴学者ラングドンと暗号解読のプロであるヌヴーが警備員の手から逃れてルーブルから脱出する下りで、このドゥノン翼最西にある男性用トイレの窓から二人は飛び降り、トラックの荷台に着地する。かなりのスリルとサスペンスだ。ところが実際は、館内の見取り図を見てもそのあたりにトイレはないし、第一、ルーブルからの脱出は不可能なのだ。ルーヴルでは万が一、悪さをする輩がいても決して逃げられない仕組みになっているらしい(2003年に、仕事でルーブル美術館館長のインタヴューの時に直接聞いた話)が・・・とにかく小説では、ロワイヤル橋付近へ落下したことになっている。

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フィクションから現実の話に戻ろう。
毎年7月恒例の自転車競技ツール・ド・フランスのスピードマンたちが、セーヌ左岸を川沿いに駆け抜けて右岸に渡るのが、このロワイヤル橋である。選手たちは、正面のフローラ・パビリオンの左端角を目の端にとらえながらあっというまに橋を渡り、流れるようにやや斜め左に逸れてジェネラル・ルモニエ(Générale Lemonnier)大通りの地下道に吸い込まれる。

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上がチュイルリー公園になっている地下道はおおよそ200mぐらいか。数秒で上がったところに出現する金ぴかの「オルレアンの乙女」にご対面、その鼻先のリヴォリ(Rivoli)通りをさっと左折する。あとは道なりにチュイルリー公園の横を抜け、コンコルド広場を半円形に回り、シャンゼリゼ大通りに入ったら正面の凱旋門めがけて疾走し、ゴールへ。・・・

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いま、これを書いていて気がついたのだが、じつはフランス中部の都市オルレアンにもロワイヤル橋があるのだ。ブロンズ金メッキのジャンヌ・ダルク像がここに建造されたのは1874年のこと。二つのロワイヤル橋との関連はどこを調べても出て来なかった。果たして偶然だろうか・・・。



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