〜選択した記事〜
ポン・デ・ザール(芸術橋) 2011年4月27日
vol.043

「ポン・ヌフの恋人」という映画があったけれど、パリで恋をする人たちはむしろこちらの橋の上で待ち合わせをするらしい。ポン・デ・ザール(芸術橋)のことである。右岸のフランソワ・ミッテラン通りと左岸のコンティ通りを結ぶ歩行者専用の歩道橋だ。ルーブル美術館の中庭にあるピラミッドの後ろシュリー館の中庭クール・カレ(方形宮)を抜けると、セーヌ川沿いに出るが、そこから左岸のアカデミーフランセーズに向かって架かっている。

板張りになった橋の上にはところどころにベンチが置かれている。そこに座って上流を眺めてみよう。やや右手150メートルほど先にシテ島の突端があり、そこにかかるのがポン・ヌフ、遠くにノートルダム大聖堂とセント・チャペルの塔がのぞく。下流を振り返れば、右手にルーブル美術館が長々と続き、400メートルぐらい先にカルーゼル橋がセーヌを横切り、左手遠くにはエッフェル塔がそびえている。写真を撮る人、ポーズをとる人。ベンチで語り合う恋人たちや家族連れ、橋の上でスケッチするアマチュア画家、自作を売るアーティスト。ギターをかき鳴らす旅人、などなど、思い思いに芸術の都パリの空気を吸う。


夏の夕方ともなると、この橋は若者たちのピクニックの場と化す。集い、車座になっておのおの持ち寄った食事をつまみ、杯を上げる。世界遺産であるパリ河岸、ルーブル美術館、パリで最も古い橋ポン・ヌフに囲まれ、遠景にエッフェル塔と、まるで絵はがきの中にいるようなビジュアルを楽しみながらオープンエアーで宴をするのだ。どんなレストランにもまして贅沢。また、この橋は時に、文字通り芸術的パフォーマンスの場所ともなる。アーティストがこの場を借り切り、自作の彫刻やインスタレーションを発表するのだ。

さて、この歩道橋ができたのは、歴史の古いパリではそれほど昔の事ではない。
1802年、ナポレオン・ボナパルトの命により、パリで初めての金属製の橋として、9連アーチの鋼鉄の歩道橋が架けられた。当時、ルーブルが「芸術の宮殿」と呼ばれていた事からこの名がついた。橋はまわりの景観を損なわないよう設計されただけでなく、「空中庭園」に似せて植物や花の鉢、そしてベンチがおかれた市民の憩いの場であったという。
1852年、左岸のコンティ河岸拡幅のため、そこに架かっていたアーチが一つ減った。バルザックの小説に「ポン・デ・ザールを渡るのに2スー払う」とあるように、この歩道橋には通行税が課せられていた。当時の通貨2スーは、彼がポン・ヌフの上で靴磨きに払った金額だから、今で言えば200円ぐらい? それでも、それを払える人しか渡れなかったのだろう。

こうしてパリ市民に親しまれながら、ポン・デ・ザールは第一次、第二次世界大戦の爆撃に絶え、その後二度に渡る船の衝突('60、'71)を経験したが、1975年3月17日に歴史建造物に登録された。1976年、パリ市の土木局の調査により橋の脆弱化が明らかになったため、翌年、ポン・デ・ザールは閉鎖。2年後の1977年、またしても船が衝突し、橋は60m崩壊してしまう。そして、もとの姿を残しつつも、隣のポン・ヌフとアーチの数を揃えて1982年に建設されたのが、現在の7つのアーチの橋である。長さ155m、幅11メートルの新ポン・デ・ザールは1984年、7月27日、当時のパリ市長、ジャック・シラックによって除幕された。

ジャック・シラクと言えば、フランス大統領時代の1997年、京都の鴨川の三条四条間にまったく同じ歩道橋ポン・デ・ザールを建設する動きがあった。京都がパリの姉妹都市となって40周年を迎えようとしていたとき、彼が思いつき、当時の京都市長に伝えたところ、市長は二つ返事で承諾したが、大の日本びいきであるシラクの構想は住民の反対運動に押しのけられてしまった。パリにあってこその「芸術橋」なのだから、そんなレプリカを断固拒否した先斗町の女将さん初め京都の人は賢かったなと思う。

橋のたもとの階段を下りて世界遺産であるセーヌ河岸の石畳を歩いてみる。左岸に6区の消防隊の詰め所。そういえば10年ほど前の夏の夕方、この近くのスーパーマーケットのレジでわたしの前に体格逞しい若者たちが数人、買い物中だった。買い物を見ると飲み物とおつまみらしい。なんだか楽しそうだったので、つい「フェット(パーティ)でもするの?」と話しかけたところ、その晩、パーティがあるから友達を誘って来て、と言われたことがある。とっても見栄えのいい、がっしりした男子たちばかりで、ウットリ。誰だか分からないからもちろん行かずじまいで、あとでフランス人の女子にそれを話したら、「えー、なんてもったいないことしたの! パリのポンピエ(消防隊)はハンサムでかっこ良くて、みな地方出身者だから性格も良くて、ポンピエのパーティに呼ばれるのは女の子の憧れなのよ!」と悔しがっていたっけ・・・。

さて、冒頭に「恋人たちの待ち合わせ場所」と書いたが、この「芸術橋」、もとの名前を離れて、今は「恋の成就祈願」橋にもなっているらしい。橋のフェンスに、色形さまざまな錠がかけられているのだ。錠には必ず恋する二人(片思いの場合も)の名前とハートマークが記されたり刻まれたりしている。かけたら鍵はセーヌに捨てるらしい。2008年あたりの写真を見ると、フェンスに錠はついていないから、この2年ぐらいの事だ。始ったのはモスクワとか、イタリアとか説はさまざま。さて、昨年2010年の春、ポン・デ・ザールは錠だらけになってしまっていたが、5月初旬のある晩、それらの錠はすっかり外されてしまった。

月初めには1600個ほどの愛の錠がたわわに「実って」いたフェンスが、5月12日にはすっかりガラガラで40個ほどしか錠がついていない。それをあるフランス人ジャーナリストが発見し、パリ市に問い合わせてみると、うちは介入していない、という答え。しかし、無数の錠は歴史建造物にふさわしくないため、なくなってくれた方が望ましい、とも。パリ警視庁に問い合わせてみても、そういった(錠をはずすようにとの)依頼は受けていない、ということで、誰が錠を外したかは分からずじまい。しかし、1600もの種類の違う錠を人に知られず短時間に開けられるとすれば、プロしかいない。しかも何人も必要なはず・・・いつ誰が、どこからの指令で取り外したのか? ミステリーだ。

ここに愛の錠をかけて行くのはおもに観光客だから、本人たちは気がついていないかも知れない。だが、捨てられた錠に込めた愛の願いはどうなるのだろう?

「ポン・ヌフの恋人」という映画があったけれど、パリで恋をする人たちはむしろこちらの橋の上で待ち合わせをするらしい。ポン・デ・ザール(芸術橋)のことである。右岸のフランソワ・ミッテラン通りと左岸のコンティ通りを結ぶ歩行者専用の歩道橋だ。ルーブル美術館の中庭にあるピラミッドの後ろシュリー館の中庭クール・カレ(方形宮)を抜けると、セーヌ川沿いに出るが、そこから左岸のアカデミーフランセーズに向かって架かっている。

板張りになった橋の上にはところどころにベンチが置かれている。そこに座って上流を眺めてみよう。やや右手150メートルほど先にシテ島の突端があり、そこにかかるのがポン・ヌフ、遠くにノートルダム大聖堂とセント・チャペルの塔がのぞく。下流を振り返れば、右手にルーブル美術館が長々と続き、400メートルぐらい先にカルーゼル橋がセーヌを横切り、左手遠くにはエッフェル塔がそびえている。写真を撮る人、ポーズをとる人。ベンチで語り合う恋人たちや家族連れ、橋の上でスケッチするアマチュア画家、自作を売るアーティスト。ギターをかき鳴らす旅人、などなど、思い思いに芸術の都パリの空気を吸う。


夏の夕方ともなると、この橋は若者たちのピクニックの場と化す。集い、車座になっておのおの持ち寄った食事をつまみ、杯を上げる。世界遺産であるパリ河岸、ルーブル美術館、パリで最も古い橋ポン・ヌフに囲まれ、遠景にエッフェル塔と、まるで絵はがきの中にいるようなビジュアルを楽しみながらオープンエアーで宴をするのだ。どんなレストランにもまして贅沢。また、この橋は時に、文字通り芸術的パフォーマンスの場所ともなる。アーティストがこの場を借り切り、自作の彫刻やインスタレーションを発表するのだ。

さて、この歩道橋ができたのは、歴史の古いパリではそれほど昔の事ではない。
1802年、ナポレオン・ボナパルトの命により、パリで初めての金属製の橋として、9連アーチの鋼鉄の歩道橋が架けられた。当時、ルーブルが「芸術の宮殿」と呼ばれていた事からこの名がついた。橋はまわりの景観を損なわないよう設計されただけでなく、「空中庭園」に似せて植物や花の鉢、そしてベンチがおかれた市民の憩いの場であったという。
1852年、左岸のコンティ河岸拡幅のため、そこに架かっていたアーチが一つ減った。バルザックの小説に「ポン・デ・ザールを渡るのに2スー払う」とあるように、この歩道橋には通行税が課せられていた。当時の通貨2スーは、彼がポン・ヌフの上で靴磨きに払った金額だから、今で言えば200円ぐらい? それでも、それを払える人しか渡れなかったのだろう。

こうしてパリ市民に親しまれながら、ポン・デ・ザールは第一次、第二次世界大戦の爆撃に絶え、その後二度に渡る船の衝突('60、'71)を経験したが、1975年3月17日に歴史建造物に登録された。1976年、パリ市の土木局の調査により橋の脆弱化が明らかになったため、翌年、ポン・デ・ザールは閉鎖。2年後の1977年、またしても船が衝突し、橋は60m崩壊してしまう。そして、もとの姿を残しつつも、隣のポン・ヌフとアーチの数を揃えて1982年に建設されたのが、現在の7つのアーチの橋である。長さ155m、幅11メートルの新ポン・デ・ザールは1984年、7月27日、当時のパリ市長、ジャック・シラックによって除幕された。

ジャック・シラクと言えば、フランス大統領時代の1997年、京都の鴨川の三条四条間にまったく同じ歩道橋ポン・デ・ザールを建設する動きがあった。京都がパリの姉妹都市となって40周年を迎えようとしていたとき、彼が思いつき、当時の京都市長に伝えたところ、市長は二つ返事で承諾したが、大の日本びいきであるシラクの構想は住民の反対運動に押しのけられてしまった。パリにあってこその「芸術橋」なのだから、そんなレプリカを断固拒否した先斗町の女将さん初め京都の人は賢かったなと思う。

橋のたもとの階段を下りて世界遺産であるセーヌ河岸の石畳を歩いてみる。左岸に6区の消防隊の詰め所。そういえば10年ほど前の夏の夕方、この近くのスーパーマーケットのレジでわたしの前に体格逞しい若者たちが数人、買い物中だった。買い物を見ると飲み物とおつまみらしい。なんだか楽しそうだったので、つい「フェット(パーティ)でもするの?」と話しかけたところ、その晩、パーティがあるから友達を誘って来て、と言われたことがある。とっても見栄えのいい、がっしりした男子たちばかりで、ウットリ。誰だか分からないからもちろん行かずじまいで、あとでフランス人の女子にそれを話したら、「えー、なんてもったいないことしたの! パリのポンピエ(消防隊)はハンサムでかっこ良くて、みな地方出身者だから性格も良くて、ポンピエのパーティに呼ばれるのは女の子の憧れなのよ!」と悔しがっていたっけ・・・。

さて、冒頭に「恋人たちの待ち合わせ場所」と書いたが、この「芸術橋」、もとの名前を離れて、今は「恋の成就祈願」橋にもなっているらしい。橋のフェンスに、色形さまざまな錠がかけられているのだ。錠には必ず恋する二人(片思いの場合も)の名前とハートマークが記されたり刻まれたりしている。かけたら鍵はセーヌに捨てるらしい。2008年あたりの写真を見ると、フェンスに錠はついていないから、この2年ぐらいの事だ。始ったのはモスクワとか、イタリアとか説はさまざま。さて、昨年2010年の春、ポン・デ・ザールは錠だらけになってしまっていたが、5月初旬のある晩、それらの錠はすっかり外されてしまった。

月初めには1600個ほどの愛の錠がたわわに「実って」いたフェンスが、5月12日にはすっかりガラガラで40個ほどしか錠がついていない。それをあるフランス人ジャーナリストが発見し、パリ市に問い合わせてみると、うちは介入していない、という答え。しかし、無数の錠は歴史建造物にふさわしくないため、なくなってくれた方が望ましい、とも。パリ警視庁に問い合わせてみても、そういった(錠をはずすようにとの)依頼は受けていない、ということで、誰が錠を外したかは分からずじまい。しかし、1600もの種類の違う錠を人に知られず短時間に開けられるとすれば、プロしかいない。しかも何人も必要なはず・・・いつ誰が、どこからの指令で取り外したのか? ミステリーだ。

ここに愛の錠をかけて行くのはおもに観光客だから、本人たちは気がついていないかも知れない。だが、捨てられた錠に込めた愛の願いはどうなるのだろう?