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レオポール・セダール・サンゴール橋 2012年1月22日

左岸のオルセー美術館から対岸のチュイルリー公園に渡る歩道橋。存在は知っていたが、なんだか馴染みがない。パリの住民のどれだけの人がこの橋を渡るだろう? 10年以上住んでいるエトランジェーのわたしも通ったのは1度だけ。たしか2004年頃。オルセー美術館の図書部で働いている知人を訪ねてからオルセーからセーヌに出て左手にある橋を渡り、チュイルリー公園を抜けてそのままヴァンドーム広場方面に向かった。初夏だったと思う。シンプルな作りで、特に印象に残っていない。あのときの記憶で、わたしはてっきりこの橋の名前はソルフェリノ橋(Pont de Solférino)だとばかり思っていたのに、来てみると、レオポール・セダール・サンゴール橋(Passerelle Léopold-Sédar-Senghor)となっている。日本語ではどちらも「...橋」と訳されているが、フランス語では " Pont " は「橋」、 " Passerelle " は「歩道橋」だ。以前渡ったのと同じ橋なのに、不思議だ。いつの間に名前が変わったのだろう? 何度見ても名前は「レオポール・セダール・サンゴール」橋(passerelle)、なぜ「ソルフェリノ」橋(pont)でなくなったのか? 橋の歴史を見てみよう。

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1859年、イタリアのソルフェリノの闘いで戦勝した兵隊がパリに凱旋した。その記念にナポレオン三世(第二帝政の皇帝)の命で最初の橋の工事が始った。1862年に除幕式があり、オルセー側のアナトール・フランス河岸とチユイルリ−河岸を結ぶこの橋は、ソルフェリノ橋と命名された。鋳鉄製で、車両も往来し、橋に続く左岸の通りも同じ名前で呼ばれた(ソルフェリノ通り)。しかし、数回にわたる川船の衝突によって脆弱化し、1世紀後の1961年に鋼製の3径間アーチの歩道橋に架け替えられ、1992年まで使われる。この橋の名前もソルフェリノといい、 " Passerelle " ではなく、 " Pont " のままだった。

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現在の鋼製の橋は左岸と右岸をひとっ飛びに跨ぎ、1本も橋桁がないアーチ式。渡ってみると分かるが、人が通ると少し揺れ、中央に来るとなんだかセーヌ川の上に浮かんでいるような感じだ。先に見て来たシモーヌ・ド・ボーヴォワール橋(Vol.023 参照)と同じく歩行者専用で、あちらが37番目、こちらが36番目に生まれた。1999年に完成。長さ106m、幅15mの鋼製二重アーチ構造、遠目に見た鋼のスタイリッシュな景観とは違い、実際に歩いてみると、橋の上面がブラジル産の木材で覆われているからか、親しみやすく暖かい。やはり木製のベンチが設置され、お天気のいい日はこのウッドデッキ風の橋の上でゆっくりセーヌの川の流れや周囲の景観を楽しむことができる。とはいえ、基礎は地下15mまで達し、150トンの重量を支えているのだから、多少揺れても心配はない。パリ出身の設計者マルク・ミムラムは1999年、「銀の定規」賞を受賞した。このときも橋の名前は変わらずソルフェリノだった。

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ウィキペディアの説明には、「2006年10月9日にセネガル大統領レオポルド・セダール・サンゴールにちなんで」とある。このパリの橋シリーズを始めた2007年当初、集めた資料を見ても新名称では呼ばれていなかったし、バス停の名前なんかはいまでもソルフェリノ橋のまま。

では、なぜこの人なのか? いったいどんな人物だろう?

レオポルド・セダール・サンゴール、元フランス植民地セネガルの故初代大統領(1906〜1995)。フランス語詩人として著名(彼の詩の一節:"アフリカ人一人の死は図書館一つ焼失するようなもの")。初めてのアフリカ出身アカデミー・フランセーズ会員(1983年)。自国セネガル国歌を作詞した人。差別と偏見にまみれたアフリカ人のアイディンティティを回復する「ネグリチュード運動」を提唱。1960年の独立後は大統領として、対内的にアフリカ社会主義政策を、対外的には親欧米政策、親仏政策を採り、フランコフォニー(フランス語圏)国際機関(組織)の設立にも尽力した。写真で見ると懐の深そうないい笑顔をしている。

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かつてのソルフェリノ橋ことレオポール・セダール・サンゴール橋の名前の主は、フランス人にも高く評価されたアフリカ社会の神様みたいな人だった。2006年10月9日はその彼の生誕100年記念だという。最初が鋳鉄製の車両通行用の橋、次に鋼製の歩道橋、そして現在の姿になってからも同じ名前「ソルフェリノ」で呼ばれていたのを、彼への記念のためわざわざ改名したのだ。そこにはなにか政治的な配慮があったかもしれないが、名誉なことではないか。

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なんといっても、橋のたもとの左岸ソルフェリノ通りにはレジオンドヌールの勲位局サルム館、通称レジオンドヌール宮殿があり、その隣にオルセー美術館、少し先は外務省、国民議会、ナポレオンの眠る廃兵院と、7区は、20あるパリの区の中で最も知的文化的政治的軍事的栄誉に満ちたトップ・エリートの集合場所だ。右岸に渡ると、もとは王宮であったチュイルリー公園をまっすぐ行ってカスティリオーヌ通りに抜ける。カスティリオーヌ通りと言えば、ホテル・ロッティ、ホテル・コストの建ち並ぶセレブな通り。その先はパリの超高級宝飾店が集まり、リッツホテルのあるヴァンドーム広場だ。きらびやかで華やかな富の象徴。つまりはフランスの政治経済文化の粋をつなぐラインである。

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それまでずっと同じ名称で親しまれてきたのに、生誕100年記念とはいえ、その橋にもと植民地国大統領に名前を冠する。白人社会に着せられた不名誉なイメージを一掃しようと呼びかけた人物に。これにはやっぱりちょっと感動ものだ。サンゴールは、政治家になる前に詩人としてフランス語を駆使して自国のアイディンティティーを語り続けた。その点が特にフランスの知識人の敬意を集めたのだろう。この国ではフランス語を用いて語る異国人を差別しない。それをあらためて知ったような気がしてなんだか嬉しい。

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と、そう思っている矢先、左岸の道路側に立っている彫像を見ると、おや、トーマス・ジェファソンだ。アメリカ独立宣言の作者であり、信教の自由を求めたバージニアの法の作者、そしてバージニア大学の父。歴史上の超有名人だが、はて、アメリカ人の彼がなぜここに? たしかにジェファソンは駐フランス公使として革命勃発直前のパリに滞在したが、住居はシャンゼリゼにあったのだ。では、黒人奴隷たちとの関係か。奴隷制廃止論者でありながら生涯を通じて黒人奴隷を600人ほど所有していた彼の立場は微妙で、賛否両論あるらしい。ただ、あの時代の白人の中ではやはり黒人の権利を認めた先覚者だった。奴隷貿易を廃止する法案に署名したのだから。・・・ということは、「ネグリチュード」運動の始祖をサポートするためにここに配置されたのだろうか。アフリカ人のサンゴールだけに栄誉を授けるわけにいかず、大ジェファソンが引き合いに出されたとか? 白人社会の深謀遠慮。だとすれば、そこに複雑な政治的意図も見え隠れするような気がする。

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橋の新しい名称がアフリカ人で彫像がアメリカ人と、わたしもずいぶん悩んだが、そんなことより、ここはパリのセーヌの河畔。実際に散策してみよう。橋の構造は上下二重、上下それぞれが両岸の道路(上)と川縁(下)に通じるようになっていて楽しい。あまり人のいないところが穴場と言えるだろう。いや、もしかしたらここは観光客の密かなお気に入りかもしれない。芸術橋(vol.043 参照)やアルシェヴェシェ橋(Vol.036 参照)ほどではないけれど、欄干には愛の鍵がチラホラ取り付けられている。橋の中央から上流を望むと、右手にオルセー、左手にルーブル、正面のずっと奥にノートルダムが、また下流を望むと右手にオランジュリー、ほぼ正面にグランパレ、左手遠くにエッフェル塔の先っちょと、眺めもなかなかいい。7月14日の花火には格好の桟敷席に違いない。

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左岸にはレセプション用の客船が停泊していて、昼はレストラン、夜はディスコとして賑わっている。隣に、バトー・ビュス(定期船バス)の停留所もある。右岸には猫の額ほどの広場があって、セーヌ川のほとりを散歩する恋人たちの後ろでミュージシャンが演奏準備を進めている。そこを老境に入った孤独な夢想者が通り過ぎていく。

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ごく一部にあしらわれたメタルが空の色を反映してシック。ウッドデッキの気取らない、しかし一部キラリと光るおしゃれな姿で優雅にアーチを描き、こんな栄誉に満ちたセーヌ両岸をさりげなくつないでいる。リュクスとカジュアルをうまく組み合わせて着こなすパリっ子らしい橋。こんな何気ないところに、この都市の真髄があるように思う。

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